第2話「情念引力と感情」
地球には重力がある。
重力が引っ張ってくれるおかげで、私たちは地面の上に立っていられる。
ところで、重力は感情にも作用するらしい。
良い意味でも、悪い意味でも…
重力は私たちを支えている。
重力がなければ、私たちは大地に君臨することが出来ない。
重力あっての私たち。
でも、重力は私たちを制限しもする。
もし、重力が私のいいなりだったなら…
気軽に空を飛べていただろうな。
誰一人、苦しみの大地に囚われることもなく…
広い人生を飛び回っていたに違いない。
重力は、意外と寛容なところもある。
私たちのわがままを、ある程度は許容してくれる。
人が空を飛ぶのも、真っ向からは否定しない。
ヘリコプターや飛行機で上昇するのを許してくれるし、スキップしたり跳び跳ねたりするのも見守ってくれている。
重力は意外と寛容なのだ。
だから、人間の感情に重力が作用するときも、人間の意志を真っ向からは否定しない。
割合でいえば、制限と寛容は、9:1ぐらいではないだろうか。
数字でいうと、たったの1と思うかも知れないが、人間の感情に換算すれば、この数字自体はさほど意味を持たない。
人間の感情は、量ではなく質だから。
人間の感情は、生きたいという意志に結び付く。
誰だって生きたいし、生きるところにしか、感情は生まれない。
重力が抑えなければ、人間はいつまでもどこまでも、際限なく生き続けるだろう。
だから、重力はその気持ちを制限する。
たとえば、人間に苦しみの感情を与える。
もう生きたくない、死んでもいいや、って思わせるために…
人間に諦めの感情も与える。
自分はいつか死ぬんだ、って…
それでも、やっぱり重力は寛容だ。
人間の意志を尊重するために、幸せの感情を与える。
それはちっぽけな幸せかも知れない。
それでも、人間の感情によって、それははるか高みの質となる。
仮に、苦しみ9の幸せ1であったとしても、その幸せは、人間の感情において、苦しみに勝る。
それを教えてくれたのは、私のお姉ちゃんであり、お姉ちゃんの親友だった。
私のお姉ちゃんは、典型的ないじめられっ子だった。
いつも一人ぼっち。
あの頃のお姉ちゃんには、たぶん友達という概念すら存在していなかったと思う。
親は仕事が忙しくて、自分の事で手一杯だったから気付いていないが、お姉ちゃんは本当に自殺しようとしていた。
私はそれを止めようとは思わなかった。
だって、あんなに苦しんでいるんだもの。
お姉ちゃんの人生に、この先どれほどの幸せが訪れようとも、その幸せの量が、苦しみの量を上回ることはないわ。
いっそのこと、お姉ちゃんは死んだ方が幸せなのよ。
これ以上生きていても、苦しみを重ねるだけ。
だから、苦しみの量を減らすこと、これがせめてもの救いだと思った。
でも、お姉ちゃんがただ死んで行くということに、私は納得できなかった。
なぜ、いじめっ子の方は平然と生きていられるのだ。
私はそれが許せなかった。
加害者側が、何事もなかったかのように生きていられる社会、こんなのおかしい。
だから、私はお姉ちゃんに知恵を仕込んだ。
いじめっ子を殺してから死ぬように誘惑したの。
感情を喪失しているお姉ちゃんに、そう仕向けるのは、あまりに簡単だった。
私が驚いたのは、お姉ちゃんがいじめっ子を殺さなかったことではない。
お姉ちゃんが幸せそうな顔をしていたこと、これにもたしかに驚いたが、それ以上に私を驚かせたことは、お姉ちゃんを幸せにしたものが、ただの一言、ただ一つの行為、ただ一人の友達だったということ。
お姉ちゃんはいった、その子が止めてくれたこと、その子が叱ってくれたこと、その子が謝ってくれたこと、その子が抱きしめてくれたこと、その子が友達になってくれたこと。
偶然にも、その決行日、一人の転校生が来たらしい。
その子が自分の友達になってくれた、ただこれだけのことで、お姉ちゃんは全ての苦しみを精算したというのだ。
「友達?その子は本当に友達なの?そもそも、お姉ちゃんは友達というものを知らないじゃない。友達ができては裏切られての繰り返し…かえって傷付くだけだから…お姉ちゃんは人を信じることを辞めたんじゃないの?それなのに、また騙されるつもり?」
そう問い詰めると、お姉ちゃんはいった。
「あの子だけは違う」
私は思わず、失笑した。
「お姉ちゃんは、何回騙されたら分かるの?そうやって、何度も何度も辛い目にあってきたじゃない」
それでも、お姉ちゃんの言葉は変わらなかった。
「あの子だけは違うの」
どうやら、お姉ちゃんのいってることは本当だったらしい。
その人は、お姉ちゃんの殺人を止めてくれたのだ、自らの身をていして。
みんな、口では正義ぶるけど、実際に体が動く人はそういない。
ましてや、痛い思いをしてまでして人を助けるなんて、とてもできない。
みんな口だけだ。
でも、その人は、お姉ちゃんの刃物を手で受け止めたという。
「あなたが、人殺しにならなくて良かった」
そういって、その人はお姉ちゃんを抱き締めた。
こんなこと、偽善者にはできない。
偽善者は、
大丈夫?
頑張って!
くらいのことしかいえないから。
偽善者はいつも、相手のことではなくて、相手のことを気遣う自分のことしか考えていない。
でも、本当に自分のことを想ってくれる人、そんな人に出会えたら、そりゃ誰だって生きようと思えるよね。
あの時にいったお姉ちゃんの言葉は、今でも忘れない。
「私の苦しみの量を、幸せの量が上回ることはない。それだけの苦しみを与えられた。それでも、幸せの質が苦しみの質を上回ったの。だから私は幸せなの。私はあの人のために死ねるよ」
苦しみの軍勢を倒すのは、ちっぽけな幸せ、幸せの質なのだろうか。